こんにちは。ゆっきぃです🙂
2019年2月~3月にかけて、イランに行ってきました。
イランと言えば、核開発の行方や、経済制裁による打撃、タンカー襲撃疑惑、
アメリカとの戦争の危機をはらんだ外交問題、など最近問題が後を絶ちません。
2019年6月には、日本の安倍首相が訪問し良好な関係を約束しました。
何かと世間を騒がせているイランですが、知っているようで、実はあまり知らない国。
今回は、そんなイランについてお話しをしていきます。
さて、どんな国なのでしょうか?
※この記事の情報は2019年6月現在のものです。
目次
イランってどんな国

正式名称は、イラン・イスラム共和国。
人口は約8000万人。(日本は1億2680万人)
経済規模を表すイランのGDPは、4,395億ドル(2017年)。
愛知の3,293億ドルや、大阪の3,256億ドル(2015年)より、やや大きい数字です。
そして、世界有数の石油の産出地でもあります。
日本にとっては、サウジ、UAEに続ぐ第3位の石油輸入先です。
イランの場所は、どこにある?
イランは、西アジア、中東の国で、アラビア半島から東に位置しています。
アジアと、ヨーロッパを結ぶ重要な中継地であり、古くから交易路(シルクロード)として、文明が栄えてきました。
東にはインド、中国があり、西には中東を経て、ヨーロッパやエジプトがあります。
国土の大半は山に覆われ、西半分はザクロス山脈をはじめとした、5000mを超える山々が連なります。
東半分は高原と広大な砂漠地帯が広がり、平野部はごくわずかしかありません。
首都のテヘランも標高1200m。
イランのほとんどの都市は標高1000m以上の高地にあります。
気候は標高が高いため寒暖の差が激しく、冬は氷点下、夏は40度にもなります。
南北にも長いため、2~3月に旅行した際も、北では雪が積もり、南ではヤシの繁る亜熱帯のような気候でした。
イランの歴史
イラン人は古くから自分たちを「イラン」(アーリア人の国の意味)と呼んでいました。
一方西洋では、「ペルシア」(ファールス州の意味)と呼ばれています。
イランの歴史は古く、紀元前3000年頃のメソポタミアに始まるようです。
アケメネス朝ペルシア

数々の王朝が覇権を争い、やがてその中からアケメネス朝が起こります。
紀元前550年には有名なキュロス大王が出現し、この地を統一。
古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国ができあがりました。
国教として、世界最古ともいわれるゾロアスター教を採用しています。
ササン朝ペルシア

紀元前330年に、アケメネス朝はアレクサンドロス大王率いるマケドニア遠征軍によって滅ぼされました。
大王の死後は権力争いや、様々な王朝の入れ替わりがありました。
やがてササン朝ペルシアが建国されると、再び強大な帝国へと昇りつめます。
ササン朝は度々ローマ帝国と戦い、ローマ皇帝を捕虜にしたこともありました。
イスラム化と諸王朝の台頭

7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国との争いや災害によって国力が低下します。
奇しくもその頃アラビア半島ではイスラームが興こりました。
ササン朝は、イスラーム勢力に敗北を重ね、651年に滅亡しました。
イランにおける中世は、イスラームの征服に始まり、イラン系の王朝やトルコ系の王朝が次々に栄えては、移り変わっていきます。
これらの王朝は、この地を統治するためにペルシア人官僚を採用し、ペルシア語を公用語としたため、ペルシア文化が花開きました。
10世紀成立のブワイフ朝は、現在にもつながるイスラム教シーア派を国教としました。
モンゴル帝国の支配

1220年にアジアからヨーロッパまでの広大な領土をチンギスハーン率いるモンゴル帝国が席巻します。
イランはモンゴル帝国に征服され、荒廃してしまいます。
その後、14世紀から15世紀にかけて、モンゴル帝国の流れをくむティムール朝の支配下に置かれています。
サファヴィー朝(1501-1736)

1501年にサファヴィー教団の教主であったイスマーイールがタブリーズでサファヴィー朝を開きました。
彼が教主になったのは若干7歳のときでした。
遊牧民部隊クズルバシュを率いて破竹の勢いで快進撃を続け、各地を征服し、その勢力を広げます。
また、イスラム教シーア派を国教に採用し、人々の改宗を進めました。
第五代皇帝のアッバース1世はエスファハーン(イスファハン)に遷都し壮大な都を建設します。
エスファハーンはかつて世界の半分ともうたわれ、王朝の最盛期を迎えました。
しかし彼の死後、帝国は急速に弱体化することとなります。
オスマン帝国との戦争を経て、1736年に滅亡しました。
ガージャール朝期(1796-1925)

サファヴィー朝滅亡後はしばらく内戦状態が続きましたが、1796年にガージャール朝が建国され政治的混乱をおさめました。
しかしながら、国内の軍事基盤が弱かったことと、この頃西欧列強は領土拡大に野心的で、植民地政策を邁進していたことも重なり、内憂外患に悩まされることになります。
パフラヴィー朝(1926-1979)

1901年にイラン国内で石油が見つかるとイギリスをはじめとした列強諸国の政治的、経済的な介入がさらに強まります。
国内のクーデターと、国外勢力の侵略による混乱を平定させたのが軍人出身のレザー・ハーンでした。
1926年、彼は自らが皇帝シャーに即位することで、パフラヴィー朝を建国しました
1935年には正式にペルシアからイランへと国名を変更しています。
イラン民族主義を重視したパフラヴィー1世は、反イスラム的な統治を行いました。
その後、皇帝を引き継いだ2代シャーのモハンマドは、第二次世界大戦を経て、1957年にCIA、FBI、モサド(イスラエル諜報特務庁)の協力を得て国家情報治安機構(SAVAK)を創設します。
彼は、白色革命の名の下、秘密警察を用いて政敵の排除や一般市民の自由を抑圧する一方で、米英の強い支持を受けて産業の近代化と農地改革令を断行しました。
特に1970年代後半はいっそう独裁色を強めていきました。
イラン・イスラム共和国(1979-現在)

独裁的統治は1979年に起こったイラン・イスラム革命によって終わりを告げます。
宗教的指導者ホメイニー師の下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラム共和国が樹立されました。
イスラム共和制とは、ウラマー(イスラム法学者)による統治のシステムであり、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われました。
また革命のもととなった欧米重視の政策への反感から、反欧米的姿勢を持っています。
特にアメリカとは、1979年のアメリカ大使館人質事件、イランイラク戦争、イスラエルの打倒を目ざすイスラム主義武装組織へのイラン政府の支援など、非常に緊迫した情勢が続いています。
2013年からは保守穏健派のハサン・ロウハーニーが第7代大統領として就任しています。
民族と言語
イランは多くの民族と言語が存在する多文化国家です。
主な民族構成は、ペルシア人(61%)、アゼルバイジャン人(35%)、クルド人(10%)、その他です。
主要言語はペルシア語で、その他にアゼルバイジャン語、クルド語などが話されます。
宗教

1979年のホメイニー師によるイラン・イスラム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つ、イスラム共和制となりました。
国教は、イスラム教シーア派。
ほとんどのイラン人はムスリム(イスラム教徒)で、その90%がシーア派十二イマーム派(国教)、9%がスンニ派(クルド人やアラブ人)です。
イランの伝統的な宗教であるゾロアスター教や、キリスト教、ユダヤ教も少数ながら存在します。
イスラム教シーア派とは
イスラム教は大きな派閥が2つあり、スンニ派とシーア派と呼ばれています。
開祖ムハンマドの死後、教団を引き継いだ歴代の4人を最高指導者のカリフとして位置付けたのがスンニ派で、全イスラム教徒の80%をしめます。
それに対し、シーア派はムハンマドと血のつながりがあるアリーとその子孫のみを正統な後継者として位置づけています。
シーア派は全体の15%ほどですが、イランやイラクのような国では多数派となっています。
日本とのつながり
2019年6月には、日本の安倍首相が訪問しました。
日本とイランは地理的に離れており、昔からシルクロード経由でペルシアの工芸品が流れてくる以外は、19世紀まで直接の関係性を持っていませんでした。
正式な国交が結ばれたのは1926年で、第二次大戦中を除けば両国は比較的友好的な関係を維持しています。
イランは日本にとって、サウジアラビア、アラブ首長国連邦に続ぐ3番目に重要な石油供給国です。
VISAの可否

1974年に一度、日本とイラン両国民は、ビザなしでお互い自由に観光訪問をすることが可能になりました。
その後の1992年、不法滞在する在日イラン人の増加を理由に、ビザ免除の協定が停止されました。
現在は東京の南麻布にある駐日イラン・イスラム共和国大使館にてビザの発行が必要となっています。
通常の手続きだとネットからeVISAの申請を行い、発行された申込書PDFを印刷して窓口に持っていき、後日処理さたものを受け取りに行くという手続きが必要です。
通常の手続きだとビザ発行までに1週間ほどの期間を要します。
在日イラン・イスラム大使館(WEBサイトのリンク)
イランの抱える諸問題
国内情勢

現在のイランでは中産階級が多数を占め、経済は堅実な成長を続けています。
一方で、高いインフレ率や、失業率が社会問題化しています。
インフレ率は2015~17年度は10%前後でした。
それが、2018年には31%、2019年4月の統計では37%にまで達しています。
ちなみに平成の日本は2009年の -1.35%が最低で、2014年の2.76%が最高です。
1980年代には7.81%という時代もありました。
最新の2019年は1.07%だそうです。
財政赤字も慢性的な問題で、食品、ガソリンなどを中心とする莫大な政府補助金が原因となっています。
実際に行ってみて聞いた話だと、主要輸出品の一つであるペルシア絨毯の市場は、以前は活気があったらしいのですが、為替が不安定で海外の取引客が減ってしまったため、閑古鳥が鳴いていました。
石油や生活物資の値上がりも生活できないほどではないですが、きついらしいです。
イランリヤルが不安定なため、相対的に価値のある米ドルをみなさん欲しがっていました。
例題(わかりやすいようモデルを単純にしています)
1ドル=100リヤルだとします。
これでミカンが10個買えます。
翌年、インフレで物価が2倍になってしまいました。
100リヤルではミカンは5個しか買えません。
今までの10個買うためには200リヤル必要ですね。
一方で、ドルを持っていた人はどうでしょう。
ドルは外貨なので国内価格には影響されません。
1ドルで、ミカンを10個買えます。
1ドル=200リヤルになってしまいましたね。
つまり、観光客から1年前にドルでもらっていた人は、
自国通貨リヤルの価値が変動しても、ドルの価値は変わりません。
持ち続けているだけで2倍有利になりました。
このような局面では、相対的に得をすることになるんですね。
ちなみに2019年6月15日現在のレートは1ドル=42,105イランリヤルです。
アメリカとは犬猿の仲

パフラヴィー政権時代は、政権がアメリカの傀儡であったため、その遺恨が深く残っています。
イスラム革命時に、政府はアメリカに対して、不平等な関係を見直すこと、流出した資産の返還、亡命中の皇帝の引き渡しなどを要求しましたが、アメリカはこれを拒否しました。
その後の歴代のアメリカ議会・政府もイランを反米国家と認識し、テロ支援国家として、国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続しています。
イラン政府側は、イスラム革命からホメイニー師死去の1989年まではアメリカに対して強硬な姿勢を取っていました。
その後の大統領は、アメリカがイランに対する敵視政策をやめるならば、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明しています。
ただし、最近はまた対立がぶり返してきて、双方直接的な衝突はないものの、外交上での言葉の応酬が続いています。
外交問題

近年ではイラク戦争やアラブの春によって、中東地域の有力国、イラク、シリア、エジプトが力を落としてしまいました。
そんな中、イランとサウジアラビアの影響力が相対的に拡大し、両国の対立が表面化しています。
それぞれシーア派とスンニ派の盟主であり、シリアやイエメンの内戦では、お互いが異なる勢力を支援し、事実上の代理戦争となっています。(アメリカとロシアにも言えることですね)
シリアは、シーア派勢力が有力な政権である事に加え、反米・反イスラエル、反スンニ派などイランと利害が一致する点が多いです。
そのためイランはシリアのアサド政権に対して、協力関係にあります(ロシアもアサド政権側です)
イランがシリア領内に築いた軍事拠点に対し、アメリカと一心同体のイスラエルが空爆を仕掛けたことで、中東地域の軍事的な緊張が高まっています。
イランの核開発

イラン政府は、核開発を平和利用するためのもので、核兵器の開発ではないと一貫して表明しています。
イランの核エネルギー開発は認められないとする立場は、欧米先進国による主張。
核を持たない新興国のトルコやブラジル、キューバ、エジプトなどの国は、核エネルギーの開発はイランの権利であるというイランの立場に一定の理解を示しています。
トルコのエルドアン首相は、イランは核エネルギー保有の権利があると強調し、地球上で非核の呼びかけを行う者は、まず最初に自分の国から始めるべきだと述べています。
2015には核協議が最終合意に達し、イラン側は核開発の大幅な制限、国内軍事施設の条件付き査察を含めた内容を受け入れました。
翌年、国際原子力機関(IAEA)はイランが核濃縮に必要な遠心分離器などを大幅に削減したことを確認したと発表し、これを受けて米欧諸国はイランに対する経済制裁を解除する手続きに入りました。
アメリカの思惑とイランの対応
しかしここにきて、アメリカのトランプ大統領が、イラン核合意から離脱し、イランに対する経済制裁を再開すると発表しました。
離脱理由は次の3つです。
- 核開発の制限に10年から15年という期限が設けられていること。
- 弾道ミサイルの開発を制限していないこと。
- アメリカがテロ組織とみなす勢力に対し、イランが軍事的・経済的に支援しているため。
トランプ大統領は、不完全な合意を放置すれば、いずれ中東に核戦争が勃発しかねないため、より厳しい新たな合意をめざす必要があるとしています。
これに対し、イランは、当面核合意にとどまる方針を示してはいます。
ただし、イランへの圧力を強めるアメリカに対する対抗措置として、核合意から離脱はしないが、核合意を遵守するわけでもないと言葉を濁すあいまいな表現をしました。
現状では、核開発を進めるわけではないが、合意で定められた以上の核物質を所持する、とルールを破ることを明言しています。
もし、イランも核合意から離脱し、核兵器の開発に踏み切った場合には、イスラエルがイランの核施設を先制攻撃する危険性も再燃します。
また、中東の覇権を争うサウジアラビアの出方も気になるところです。
ホルムズ海峡を巡る緊張
2019年6月13日、ホルムズ海峡を航行中のタンカー2隻(1隻は日本の船)が攻撃を受け、アメリカはイランによる攻撃と断定しました。
一方のイランは関与を全面否定し、誰かがイランと国際社会の関係を不安定にしようとしているとし、濡れ衣であると主張しています。
これに対し、イギリスはアメリカに追従、他の先進国各国は、詳しく調査する必要があるとして様子を見る方針です。
現代の戦争
アメリカ、イラン双方にとっても戦争という選択肢は賢明ではありません。
現代戦では決定的な勝利は難しく、両者とも失うものが大きすぎるからです。
現代の価値は優秀な人材とテクノロジーです。
昔のように領土の占領が目的ではないため、たとえ勝てたとしても、戦争行為自体にあまり旨味はありません。
それはお互い理解しているので、どちらかが一方的に仕掛けるという確率は低いと言えます。
しかし、思わぬ事態の発生によって、避けられない方向に動いてしまうこともないとは言い切れません。
最後に
イランは遠い国ではありますが、日本経済にとって、なくてはならない国の1つです。
なにより、一度その場所を訪れ、人々と会い言葉を交わしているので、彼らの事を思うと、大変なことにはならないでほしいと願うばかりです。
緊迫した状況ですので、今後も注意深く見守っていこうと思います。
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